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下血 [父のがん]

月曜の夜から火曜の昼間は、妹が見ていてくれた。
相変わらず、夢の世界であらぬことをしゃべる。すっかり夢の世界で生活しているようだ。
夜は、活発にいろいろしゃべって、妹が「寝るでね」と言って寝たふりしていても「やい」と呼ばれていろいろ指図されるので寝られないらしい。昼になると本人も眠いんだが、しゃべっった内容が聞き取れないので何度も聞くと、それはそれで怒るらしい。
その間、下血が何度かあったらしい。そういえば、僕が泊まった日曜も便というより血のようになっていたので、日曜のよるには始まっていたんだろう。
そういえば、昭和天皇崩御の時に、毎日のように下血があったとかなかったとか報道をしていたような気がする。
そういえば、火曜の 0:00 からモルヒネの量が少し増えた。それで静かになるのかと思ったら、痛くないもんだから、かえって元気になったようにも見える。

火曜の夜は義妹が見てくれる予定だったが風邪を引いたので、弟が水曜に休暇をとってくれて泊まってくれることになった。出張だったが、帰った夜に泊まってくれた。
弟の見ている夜も、引き続き下血が続いている。
でも、夜は相変わらずいろいろしゃべっていて寝られないらしい。


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モルヒネに変える前後数日間の話 [父のがん]

水曜日 5/31 に早退して、19:00 頃に病院に着くようにした。
それから月曜日の朝までの記録。この期間、父にはもはや普通の判断力はない。

5/31(水)
着いてみると、いきなり父が「立ちたい」と言った。ちょうど、妹と義妹がいたので3人で支えて、
立たせてみた。いったん寝たあと、「座りたい」と言ったので座らせてみた。このときはおしっこがしたかったみたい。
しびんでおしっこをさせて「(私の)おじいさんも最期までしびんでおしっこしたねぇ」と言ったら、「そうだなぁ」と答えていた。分かっているのかはっきりしないが、時にはまともに見える返答もする。
静かに寝ていたが、いきなり「丸太で売ればいい」「小さく切ったほうが売りやすいじゃないか」といった。適当に話をあわせて置いたが、その後 22:00 頃に弟が様子を見に来た時に「山に、切っておいてあるのがあるだ」と言った。そんなに長く話しが続いているとは思わなかった。
母は、こういう父に夢の世界の話をされて、うまく話をあわせられなくて怒られると言ってかなりナーバスになっていた。
この日は、病院に泊まった。
看護師さんに「座薬の鎮痛薬が効かなくなってきているのでモルヒネの持続皮下注射にしてはどうか」と相談を受けた。確かに、2種類の座薬を交互に切り替えてなんとか持たせているが、効かなくなってきていてかなり痛そうな時間が増えてきた。主治医に伝え、明日の午後、主治医の回診時にモルヒネに変えてもらうことになった。

6/1(金)
早朝 「家に帰ろう」→「無理だよ」という押し問答があった。最初、病院からどうしても帰りたい、という話をしているのかと思ったが、どうも現在の自分が置かれている状況ははっきりしないが、とにかく長いこといたからそろそろ家に帰ろう、とわりと気楽な感じで言っているらしい。父にしてみれば病気で病院に居なくちゃいけないという感覚がないだけに、こういうのは説得するのに苦労する。
こういう押し問答はこの後も何度もあった。泊まって付き添っていて、こういうのがあるととっても疲れる。
主治医は、午前中は外来の診察なので、午後すぐにでも回診があるかと思ったら、結局夕方になった。医者は今までの、パッチの薬量などを入念に計算して結局始まったのは、16:15 からくらいだった。
最初に、モルヒネには呼吸抑制があるので、いつ呼吸が止まってもおかしくない、と言われていたが、さすがに、そこら辺は入念に計算してることもあるんだろう、いきなり呼吸が止まることはなかった。
その夜は、妹が泊まることにして、私は 19:00 には帰って 20:00 には寝た。翌朝 5:00 過ぎまでぐっすり眠った。あんなにぐっすり眠れたのは久しぶりだ。

6/2(金)
妹は、朝、子供たちを起こして学校に行かせる必要があるというので、母と朝6時に病院に行った。
妹だけかと思ったら、昨日の夜義妹も来てくれて2人で見てくれたようだ。
父は、もともとのパッチの鎮痛効果が切れて、モルヒネは最初は少なめに始まるので、
意識がはっきりしていろいろ怒ってるし、痛いしで妹曰く「とても一人じゃ面倒見られなかった」とのこと。
その日の夜は、自分が泊まった。

6/3(土)
朝 7:00 に母が来た。それまで、夢の中の世界のような話ばかりだったのが、母の顔を見るなり
父が、「苦しいで、早く死んで(病院を)出たい」と言った。ちょっとびっくりした。
モルヒネは呼吸抑制が出るというので、「痛かったらフラッシュ(追加投与)しますので」、といわれても・・・とびびって居たのだが、こころおきなくお願いすることにしようと思った。
そのすぐ後も、また父はわけの分からないことを口走っていたが、あれは本心だったんだろう。

6/4(日)
前日は、弟が泊まったが、モルヒネが効いているのか比較的寝ている時間が多かったようだ。
これなら、夜泊まっても楽だな・・・と思ったのだが
この日の夜から翌月曜までは、大変だった。
モルヒネもなんとなく効かないようで、何回もフラッシュしたし、
突然、夜中に父が「豚を飼うことにした」と宣言して、夢の中で豚を飼っているようなのだが、電気をつけたり、水をやったり手伝うのが大変だった。父の思うように行かなくて何度も怒られて・・・。

6/5(月)
早朝 5:00 に、母に交代してもらって、出勤。
実家から、始発で大手町まで定時までに出勤できることがわかった。


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今日は、やや調子いい [父のがん]

さぁ、今日は会いに行くぞ!
というときに、昼頃、義妹からメールが来た。
「昨日の夜から今日にかけては、調子いいからそんなに無理してこなくてもいいかも」
とのこと。
たびたび休んでいるし、これからのこともあるので心配してのことだろう。

ただ、もう僕にしてみれば死に目に会えるかどうかは問題じゃない。
むしろ、すこしでも話せる間に会っておきたい。調子いいなら、なおのとこ都合がいい。
楽しみにして行くことにした。


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夜の様子 [父のがん]

妹に、「帰るときに、様子をメールして」とお願いしておいた。
9時半頃にメールが来た。
ずっと眠ってて、息がだいぶ弱まっている感じ。
時々、目を開けてても義妹と妹の会話の意味が分からないときがある。
でも、水差しの水を飲んだり少しは会話したりするらしい。

もっと、最期は苦しそうにしたり、うなされたりするのかと思ったが、思いのほか穏やかなようだ。
下痢がひどくて、今は座薬の鎮痛薬は使えないようだが、パッチを以前の2倍張ってもらってるのが鎮痛としてはずいぶん効いているみたいで、今日は昨日やおとといの夜のように苦しんではいないみたい。
明日、会話できる状態で会えるかどうか分からないが、父が寂しくない状態で最期を迎えられるなら満足だ。


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今日明日かもしれない [父のがん]

昨日は、妹が病室に泊まってくれた。
昨日の夜に痛がったり、今朝は熱が出たりしたらしい。
今日、座薬を変えた。鎮痛薬のパッチも2倍に増やした。
夕方になって主治医に呼ばれた。
息も弱くなってきているので、今日明日かもしれない、と言われた。
携帯にメールが来た。

死に目に会えなくて、自分が悔やまないだろうか?
少し考えた。しかし、祖父の時のことや義父の時の死から、死に目に会えるかどうかは、全くの運でしかないことは知っている。
問題は、父がどうかということだけだ。
今日は、義妹が泊まってくれるそうだし、明日は母が日中は居てくれるらしいので、僕が居なくっても、父は寂しくはないだろう。
明日、いろいろ仕事の調整をしてから、夜までに病院に行くことにした。


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みんなで病院、そしてお泊り [父のがん]

土曜日は、息子の運動会の予定だったが、雨で順延になったので、急に思いついて
家族4人で父のお見舞いに行った。
もう、始終夢の中にいて話しかけてわかる時間が全体のごく一部になっていたが、
子供たちが、「またくるね」と握手をしたら「また来てね」と言っていた。
子供の世話があり早々見舞えないかみさんも、多分これで会うのは最期になるだろう。

そのあと、土曜の夜から日曜日の朝にかけて、病室に泊まった。
昼頃ついてからしばらくは、僕だとは分からず、見知らぬ介護をする人かと思っていた。
ちょくちょくは顔を出していても、こんなに長く遠く離れて住む息子が病室に居て
水を飲ませたり、床ずれをしないように位置を変えたりするというのが、感覚的にないことと思っていたのだろう。
何回か話しているうちに、だんだんと息子がいることが理解できてきたようで、
夜中、ふと目を覚ますので「どうした?」と聞くと「何でもない」とだけ答えていたが、
ひとりでない(家族がそばにいる)というだけで安心するようだ。
明け方から僕が帰る昼ごろまでは、下痢や発熱で食事も思うようにできなかったりしたようだが、
少しでも安息の時が過ごせて(でも、夜中に聞いても「腰が痛いなぁ」とは言っていた)よかった。
前日には、妹が泊まったようだが、そのことは覚えてないようだし、夜中に
「子供らはどうしてる?」と、昼に見舞いに来て話をしたことは忘れていたので、きっと翌日にでもなれば、僕が泊まったことは忘れるんだろう。

父が寂しかろうという思いもあるが、高校卒業以来一緒に暮らしてないので、
少しでも長く一緒にいたい、という思いが強い。
最初、知らない人がそばに居てくれる思っていたようだが、時々する会話で
息子だということが理解できて、夕食後から早朝4時くらいまでは、僕が聞いている話よりは
安眠できていたように思う。
早朝から、僕が家路に着く昼過ぎくらいまでは、下痢だったり発熱だったり腰痛だったりで、つらそうだった。

父の死なんて、おれが60くらいになってからだろうとたかをくくっていて、
「千葉なんて近いよ」と言っていたが、いざこんなに早くそのときが来てみると、
仕事もあるし、なかなか思うように行かない。
今になってみると、できるだけ親に近いところで就職するのがよかったんだろうか、と思う。
実際には、そんなことはとても難しいんだけど。

あと何回か分からないけど、また週末には父と一緒に過ごすつもり。


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自分も寝られない [父のがん]

火曜日に、医者にあと1ヶ月と告げられてから、本を読んだりする気力もなく、
夜寝られず、通勤電車でも涙が出るようになった。
最初にガンと分かった時点で、ことの顛末を最期まで、記録に残そうと思ってきたが、
正直、日記にエントリを書く気力がなくなってきた。

こうなることは2月の時点で分かっていたはずだし、予想通りの転機のはずなんだが、
この前の医者の話でようやく心底父の死の近いことが理解できてきたのかもしれない。

父は、まだ、多少話しは分かるものの、日増しに意識レベルが下がってきているようだ。
今日は、妹が病室に付き添って泊まってくれるようだ。

あとは、もうどれだけ長く一緒にいてやれるかだなぁ。
明日(もう日が変わってるから今日か)は、子供の運動会を見たあと父に会いに行くつもり。
最近、指折り週末を数えている。
あと何回会えるか分からないが、明日は何とかなりそうかと思うとちょっとだけ、ほっとする。


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痰吸引機が持ち込まれた [父のがん]

もう、日々の様子を書くのが悲しくなってきたので、もうあまり書けないかも。
夕方、妹から、会社終わったら電話くれとメールが来た。
電話してみると、今日、痰吸引機が持ち込まれた、とのこと。そのとき、担当の看護師さんがこっそり妹に言ったところによると、舌もだいぶ奥に入ってきているので、あと2、3日かも。午前中に見たときの父は、話しかけられたことをオウム返しするだけで、目の焦点もあまり定まっていないような、と妹は言っていた。ここ数日に妹の見る父はそんな感じらしい。

もう、数日前からは、母は病室に泊まるのをやめて、夕食を食べさせたあとに帰宅していた。
最近、2回ほど夜中に一人でいる病室で起き出してベットから落ちていることがあったので、できれば付き添ってくれないか、と看護師さんに言われたようだが断ったそうだ。入院した2月からほぼ毎日のように病院に泊まっている母。父母の感覚からすれば(祖母の時もそうだったが)家族が病室に寝泊りして付き添うのは当たり前のことだが、いまどき、そこまでできる人は居ない。母は良くやってきていると思うし、ここで断る母を責めることはできない。
むしろ、そういう役割を長男である僕の家族がまったく担えないのを申し訳なく思う。
近いと思っていた千葉が思いのほか愛知からは遠いことを思い知らされる今日この頃。

電話くれという用件は、母は、先日の医師の説明には出ていなかったので、それほど切羽詰っていると思っていないようだが、臨終の時にそばにいてやれないと悔やむだろうから、もう時が近いことを教えたほうが良いんじゃないんだろうか、との相談だった。

僕からは、「2、3日かもしれないが、あと2週間かもしれない。あと2週間続けて病院に泊まるのは、母にはむりだよ。もうすこし様子を見て、本当にだめになってから母に伝えても良いんじゃないか。とにかく、土曜日に俺がいくから、そのとき必要なら言おう」
と言っておいた。
その直前に、病室に電話したときには、今日の夕食はいつもより少しは多く食べていた、と母が行っていたことを伝えておいた。ほんの少しながら、まだ、自分で食べることができるのだから、あと2、3日ということはないような気もする。臨終の間際まで意識がある場合もあるそうだが。

そのあと、夜になって(多分、母が帰宅してからになったと思うが)妹と妹のだんなと下の娘で父を見舞ったとメールが来た。そのときは、最近にしては目の焦点も定まっていて、会話も成立し、
今日は、いつもより少し食事を食べられた話をして、帰りには孫娘に「バイバイ」と言っていたそうだ。


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あと1ヶ月 [父のがん]

月曜日に妹から電話。
主治医が、現状を説明したいとのこと。
火曜日 17:00 に時間をとってもらうことにして午後休病院に行った。
弟妹と弟の奥さんと僕、4人で聞いた。

いきなり「あと1ヶ月です」と言われた。
これから鎮痛薬を増やしていくと今以上に意識レベルが下がって眠った状態になってしまうので、
今のうちにあわせたい人がいたらあわせておくようにとのこと。

そういえば、両親が「腰に放射線を当てている」と言っていたのは実際にはそけい部の痛みに
当てていただけで、腰は内臓が多くあるのではなから放射線を当ててないそうな。

あとで、母にどんな話だったか聞かれたので(父の前で)
・放射線治療も抗がん剤治療もしない
・今は、鎮痛薬を投与で鎮痛だけして様子を見る
と、両親も理解している現状だけ説明して、あとどれくらいという話があったことは言わなかった。

ただ、そのあと
「何か言い残したことはないか?」と父にしつこく聞いたりとか、自分が気がかりだったことを話したりして、父ももう家に帰ることはないだろうとは思ったのかもしれない。

父は、おとといあったときよりもしゃべってることははっきりしなかったが、内容はおとといよりも
ちゃんとしていることが多かった。ほとんどがつじつまの合う話だったが、ときおり「トラクターは・・・」
とトラクターの話が出ていた。
土曜日に、あの中古のトラクターの処分を知り合いに頼んだらしいがそのことが気になっているようだ。

最初に、末期がんであることを知らされたときよりも、あと1ヶ月といわれた今回の方が涙が出た。


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眠い [父のがん]

毎週、見舞いにいってもそんなに変わりないか、とおもいつつも今日も行ってみてびっくり。
僕が居るっていうのに、ずっとうとうとしていて、夢のようにおかしなことをしゃべる
「いまさらなー、仕事を今以上大きくする気はもうないよ」とか(何年も前から仕事してないのに)

ただ、ところどころまともなことも言っていて、ちょっと鎮痛薬が効きすぎって感じ。
興味深かったのは(というのは不謹慎だが)
「こうやって、おかしなことをいうとお母さんが『おかしなことを言った』といってさわぐだよ」
と、おかしなことを時々言っていることを把握しながらまともなことも言ってたこと。

意識レベルが低下していることは置いておいても、放射線治療のためか吐き気がして
ほとんど食事が取れてないとのこと。本当は、来週一杯、放射線照射をする予定だったが、
中止になったらしい。
腰が痛いままの状態で、疼痛緩和治療が中止になるのは残念だが今の状態では仕方ない。

医者も現状は分かっているはずなので、もうすこし意識レベルがあがるように鎮痛薬も工夫してくるだろう。
鎮痛薬は、いろいろあって痛みを抑えるのは簡単とは聞いていたが、いざ見てみると
確かに、痛みは緩和されているが、なかなか思ったように調整するのは難しいんだなぁ。

母も疲れているし、父もずいぶん不安に思っているようなので、見舞いに行っておいてよかった。
来週末もできたら行こうと思う。


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